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  • 執筆者の写真TENTEKO

Mark Rothko



マーク・ロスコは大学生のときに好きだった画家です。彼は画家です。どうやって描いたんだろう、っていう、容易に再現させてくれない作品でした。

彼は1903年にロシア帝国だったラトビアで生まれました。ユダヤ系の家系です。父は薬剤師で教養があり、子どもたちに政治や社会について教えていたのだそう。当時はユダヤ人への偏見や差別があり、ロスコもそんな環境の中育ったようです。

ロスコが生まれた当時は反ユダヤ襲撃が盛んになり、子どもたちがロシア軍に召集されるのを恐れた父は、1910年に渡米します。その後を追い、兄たちも渡米、ロスコも1913年には渡米を果たします。1914年に父が癌で亡くなったあとは、叔父の倉庫で働きながら新聞を売って生活をしていました。

そしてリンカーン高校に進学し、文学・哲学・社会学・ギリシャ神話に興味を持ちます。成績は優秀だったそうです。父のおかげでロシア語など3ヶ国語を話せる上に、この時期に英語を習得し、ユダヤ人コミュニティセンターの主力となります。政治議論を得意とし、労働者の権利や女性の権利についても考えていたそうです。

1921年には奨学金を獲得し、イェール大学で心理学を学び、法律家かエンジニアを目指していました。奨学金の更新ができなかったこともあってか、1923年には中退してしまいます。

同年、友人に会うためアート・スチューデンツ・リーグを訪れた際、ヌードデッサンの授業を見て、美術の世界に入ることを決めました。 その後2ヶ月程度でやめてしまい、ポーランドに帰省し、役者を目指し始めます。そして1925年、パーソンズ大学でグラフィック・デザインを学びます。そのときの講師の1人がアーシル・ゴーキーでした。同年、アート・スチューデンツ・リーグで行われたキュビスムの授業を受けたりしています。

この頃は、ドイツ表現主義やシュールレアリスムの影響を受けており、暗く不気味な中に風景などが描かれた絵画を制作していました。

ただ、収入が十分ではなかったので、1929〜1952年まではセンターアカデミーで粘土彫刻を教えながら活動をしていました。この期間に、ミルトン・エイブリーという年上の作家と出会い、プロとしての人生へのひらめきを得たらしいです。エイブリーとはかなり仲良しで、作風もこの頃は似ていたそうです。

1933年に水彩系の作品の個展を、ポーランド美術館でおこないます。シュールレアリスムの影響が強い作風でした。

ロスコはアーティストになることを家族に応援してもらえなかったようです。経済的に深刻な状況で、ロスコら現実性のない働き方をしていたからです。

1936年ごろから、子どもの絵画と現代絵画の類似性について考え始めます。神話性を含んだテーマを持つようになるのもこの時期からです。1938年には、ユダヤ人迫害の経験により、アメリカから追い出されることを恐れ、アメリカ国籍を取得しました。そして、2年後には出身がわかりにくいように、マーク・ロスコに改名しました。また、この年には哲学や神学などに没頭するようになります。

1940年代末ごろから、クレメント・グリーンバーグによって評価され、ロスコの名作のスタイルが確立していきます。グリーンバーグは抽象表現主義の画家たちを有名にしたことで知られる批評家です。ロスコは、全部を1つの空間で展示するインスタレーション的な提示の仕方を希望していました。そのため、作品の購入を申し出ていた美術館などは、なかなか買えなかったみたいです。

1970年に、病気と私生活のトラブルから自殺し、人生は幕を閉じます。

彼は早くから売れていたというわけではなく、様々な苦労をしてきました。今まで調べた中で一番、語る歴史が長いなって思いました。目指すことも、けっこうコロコロと変わっていて、精神が不安定な部分もあったのかな?と思える記述もありました。しかし、独自のスタイルが見えてきたのは晩年です。自分のスタイルを晩年まで諦めず模索し続けたのは、尊敬する部分があります。さらに、展示の仕方まですごくこだわっていたことも尊敬すべき点です。



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